仕事の目的

仕事の目的は何か。

 

仕事には3つの区分があると思う

①現状の維持

 既に私達の生活にあるもの、トイレットペーパーなどの日用品などの再製造。

 あるいは、私達が繰り返して行ってきているもの。子育てや、社会インフラ、教育など。

 

②不足の充足

 既出の問題を解決する仕事。

 例えば、少子高齢化による人手不足の解決。保育士の待遇問題。

 あとは、物質的な不足。アフリカにテレビであったり、空調であったりを供給することなど。

 

③不足の創造

 不足していると感じていない人々に「不足している」と思わせる仕事

 例えば、iphoneなんかは適例だと思う。スティーブ・ジョブズiphoneを私達の前に差し出し、その素晴らしいプレゼンと売り込みにより、iphoneがほしい、つまり、iphoneに対する「不足」を感じさせた。莫大な「不足」だ。

 

近年は③の仕事、能力が重視されている傾向にある。

不足の創造。

30年前であれば、②不足の充足だけで、企業として成長することができたのだろう。

なぜなら、焼け野原になった日本、人口増加していた日本では、極端に物質的不足が生じていたからだ。

企業はそれを満たすことに全力を傾けるだけで、成長できた。

 

しかし、現在は物質的に充足してしまった。

既に、消費しているものを継続的に消費し続ける、現状維持が大半を占めるようになった。

しかし、民間企業は現状維持だけでは成り立たない。

何故なら企業は投資家のものだから。成長は企業の義務なのだ。

 

成長するためには、生産量を増やすしかない。あるいはコストを高くするか。

生産量を増やすには、不足を見つけ、供給するしかない。しかし、現代社会において「不足」を生み出すのは容易ではない。

特に日本においては、現状維持ですら、人口減により縮小している。

 

だからこそ③の仕事が必要なのだ。

不足の創造。

付加価値の創造とも言える。

 

これから日本の民間企業で生き残っていくのはこの不足の創造ができる人間だろう。

 

自分は自信がないから、行政に逃げようと思う。

行政の仕事は基本的に1と2だからだ。

しかも行政は利益も成長も追い求める必要がない。

ぼーちゃんになりてぇ

就活期というものは自分のことがよく理解できる時期だと思う。

 

自分は何がしたいとか、何がしたくないとかそういうことだけじゃなくて、

自分は誰から尊敬されたいのか、どういう価値観で物事を見ているのか、その価値観の原因は誰なのかとか。

 

他人の人生を生きていて、自分自身の人生ではなかったなぁってこの年齢になって実感。

結局、就職先も「他者の評価」で判断してしまっている。

でもそれってめちゃくちゃ生きづらいことだなって思った。

大学は「みんなが羨む」大学に入れたけど、「皆が羨む」人生を歩み続けるって相当の能力が必要だしそんな人は本当にごくわずか。

 

でもやっぱり始めは皆、「他人からどう思われるているか」で評価するとおもうんだよなぁ。いろんなこと。

少しずつ、自分の絶対評価っていうものを手に入れられるようになっていくんだろうけど、その過程は諦めに対する辛さがあるとおもうんだ。

 

で、多分いまの自分は、他人の意思ではなく、自分の意思で生きようとしている過渡期であるとおもうんだ。

でも、物事に「他者の評価」を挟まずに価値を与えることがどうしてもできないんだよ。

 

だから、そこら辺の石ころに、大きな価値を与えているぼーちゃんってすげぇなって思う。

だって、あんなの他人からしたらゴミ以外の何者でも無いわけで、それを好きっていうためには、「他人の評価」を捨てなければいけないわけじゃん。

5歳にして、絶対的な自己を確立しているぼーちゃんすげぇよ。

 

「自分の好きなもの」を見つけたとき、人は本当に幸せになれるんだろうなぁ。

それが自信なんだろうな。

もう人の評価で物事見るのやめよう。

 

インスタ映えとか気にしてるやつは少しはぼーちゃん見習ったほうがいい。

 

あー。俺きょうから、ぼーちゃんとして生きよ。

って結局他人の価値観に依存してるやん。

どん底とは

ひきこもりや不登校児の支援活動をしていると驚かされることが多い。

 

何に驚かされるって、彼らの根本にある「強さ」にだ。

 

はっきり言って、引きこもりの人たちは対人関係が得意である人は少ないし、彼らも自覚している。

それでも、もう一度傷つけられると知っていながら、自分が取り返しがきかないほど年齢を重ねてしまったと理解しながらも、それでもまた上を見上げ、歩きだす。

 

「男の真価は勝ったときではなく、負けたとき分かる」

フィル・ヒースというボディビルダーの言葉だ。

 

就職活動にぶち当たって、この言葉の意味がよくわかった。

 

目標を達成することより、失敗した後に立ち上がることのほうがずっと難しい。

 

たいていの人間は「自分なんかどうせダメだ」って保険掛けて逃げたくなるし、同じような辛い思いなんてしたくないからアレコレ理由をつけて挑戦することをやめる。

 

今の自分がそうだ。はっきり言って絶望している。

早稲田大学に入って、そのまま大企業に就職し、中上流の暮らしができるものだと思っていたし、それ以外ありえなかった。

でも、就職活動を通して、等身大の自分ってものが見えてきたし、それは想像の自分とは遥かにちっぽけで、まだ受け入れることができないでいる。

 

そんなふうに悲観的なことばかり考えてしまうが、果たして自分には絶望する資格があるのか。また絶望する必要があるのか。そんなことを考えるようになった。

 

そもそも絶望とは、希望が絶たれた状況のことを言う。

でも本当は「希望なんて無い」って思いたいだけで、そう思うことで現実と理想のギャップを否定的に受け入れようとしているだけなんじゃないだろうか。

絶望っていうのは、何も考えなくていいし、エネルギーも使わないから楽なのだ。

 

だから絶望しているってことは、人生から逃げてることと同じだと思う。

人を絶望にするのは状況じゃなくて、人生に対する気構えなんじゃないかな。

絶望は受動的なもの、希望は能動的なもの。

僕らはみんな『空気人形』

誰にでもどん底はある。10人いたら10人のどん底がある。

僕のどん底は18歳。浪人することが決まった時。

兄からは毎日蔑みの言葉を浴びせられ、両親は完全に自分のことを失敗作であると諦めていた。誰からも何からも必要とされていなかった。

 

灰色の世界で、自分なんて誰からも必要とされてない。生きている意味もない。本気でそう思っていた。

 

そんな鬱状態で、浪人という大事業に乗り出すエネルギーがあるわけなく、ただただ布団に横たわり、天井を見ながら外が暗くなるのを、無感動に眺めていた。

 

そんな時、ある映画に出会った。

『空気人形』という映画だ。

 

空気人形』(くうきにんぎょう)は、2009年日本映画第62回カンヌ国際映画祭ある視点部門で上映された[2]原作業田良家の『ゴーダ哲学堂 空気人形』(小学館刊)。

キャッチフレーズは、“心をもつことは、切ないことでした”空気人形 - Wikipedia

 

この映画は性処理用の空気人形(のぞみ)が、本物の心と身体を持ってしまうという物語だ。

 

心を持ったノゾミは自分の存在の意味を求め始める。

 

性処理の道具としてではなく、一人の人間として。

 

のぞみは外に出て、様々な経験をして、様々な人を見る。

 

余命半年の老人、

若さに取り憑かれた中年OL、

二度と会えない母親の帰りを待つ少女、

ノゾミの恋人になる映画好きの青年。

 

それぞれがそれぞれの「空虚」を抱えていることをのぞみは知る。

 

 「みんな私と同じ。中身は空っぽ。」

 

ノゾミのこのセリフにとことん痺れた。

 

空気人形というのは「他者」に、息を吹き込んでもらわないと、膨らまない。

 

でもこれは、人間も同じなのではないだろうか。

「他者」からの承認があって初めて、「存在」できるんじゃないだろうか。

 

それでは他者からの承認とは、どうすれば得られるのだろうか。

そして他者から承認されていると確信するためにはどうすればいいか。

 

それは他者に「息を吹き込む」ことによってではないだろうか。

 

他者に存在の意味を与える存在。

そんな存在に私達はなりたいんだ。

「誰かから必要とされたい」

誰しもが抱えている思いであると思う。

 

誰からも必要とされていないと感じた時、人は生きていくことができない。

 

私達は息を吹き込む主体であり、息を吹き込まれる客体でもあるのだ。

私達はお互いの身体に息(意味)を吹き入れている。

 

だが物語の最後は残酷な終わり方だ。

 

ノゾミは恋人から、「身体に空気を入れさせてくれないか?」と頼まれる。

了承したノゾミは自らの栓を外し空気を抜く。

そして恋人の息で、自分の身体が満たされていくことに喜びを感じる。

 

そこまではよかった。

 

ノゾミは同じことをしてあげたいと思い、恋人のお腹にナイフで穴を開けてしまう。

もちろん恋人は「本物」の人間なので、穴が開けば死ぬ。

与えようとしたら奪ってしまったのだ。

ノゾミはわけも分からず、セロハンテープで傷を塞ごうとするが、もちろん塞がらない。

青年はノゾミの意図を全て汲み取り、笑顔で逝った。

 

ノゾミは、最後まで意味を与えることができなかった。

命を奪ってしまった存在として、物語の最後を迎えることになる。

 

ここで最後に、劇中で朗読された吉野弘氏の詩を引用して終わりにしたい。

吉野弘 3 生命は

       生命いのちは

 

        生命は

        自分自身だけでは完結できないように

        つくられているらしい

        花も

        めしべとおしべが揃っているだけでは

        不充分で

        虫や風が訪れて

        めしべとおしべを仲立ちする

        生命は

        その中に欠如を抱いだき

        それを他者から満たしてもらうのだ

 

        世界は多分

        他者の総和

        しかし

        互いに

        欠如を満たすなどとは

        知りもせず

        知らされもせず

        ばらまかれている者同士

        無関心でいられる間柄

        ときに

        うとましく思うことさえも許されている間柄

        そのように

        世界がゆるやかに構成されているのは

        なぜ?

 

        花が咲いている

        すぐ近くまで

        虻あぶの姿をした他者が

        光をまとって飛んできている

 

        私も あるとき

        誰かのための虻だったろう

 

        あなたも あるとき

        私のための風だったかもしれない

                      詩集『風が吹くと』1977年

 

 

水の線路 / 生命は world's end girlfriend - YouTube

 

7つの習慣 ミッションステートメント

『7つの習慣』というめちゃくちゃ売れた啓発本がある。

ニューヨークのエリートとかが取り入れているらしいけど、実際に7つの習慣を取り入れているエリートにあったことがない。

 

自己啓発本ってあんまり好きになれない。他人の言うことにホイホイ従うのは思考停止だと思うし、自己啓発本はそれを求めているように思えてならないから。

 

ただ『7つの習慣』のミッションステートメントっていう考え方は生活に取り入れてみても良さそうだなと思った。

ミッションステートメントっていうのは、個人の個人のための個人による憲法らしい。

行動の指針として常に自分の行いと選択の判断規準として用いる。

 

これの良いところは、自分が本当に大切にしているものを、明示化できる点だろう。

一過性の快楽に身を任せるか、大きな人生の目標に向かって邁進していくか。どちらがいいかは比べる必要もないだろう。

 

じゃあ、自分のミッションステートメントってなんだ??

自分が大切にしたいものって、考えてみると案外むずかしい。

だから、自分の生活や選択に自信が持てないのかもしれない。

なんとなく流れに見を任せてしまっているような。主体性がない。

 

幼い頃は、物事に執着することがほとんど無かった。

人間関係や所有物、ありとあらゆるもの。なぜだろう。

それは、「やるべきこと」が決まっていたからではないだろうか。

つまり、子どもの究極のミッションステートは「学校に行くこと」。

自分の「すべきこと」がわかっていて、それをしっかり遂行していたから、生活になんの不満も不安も欠如も感じていなかったんじゃないか。

 

じゃあ今は。

学校に行くことだけでは、承認してもらえなくなった。自分らしい取り組み、努力、自分のしたいことをしている、状態が求められているいる気がする。

だから大学に行っているだけじゃ全然ダメなんだ。

そこで自分の「したいこと」を見つける必要がある。

 

「したいこと」=どんな人間になりたいか、に繋がる気がする。

 

そして、俺が元カノに執着してしまっていたり、何となく日々に確信が持てずにいるのは、きっと納得できる「ミッションステート」を持っていないからじゃないだろうか。

いや、絶対そう。心の中では何となくわかっていた。

 

自分のミッションステート、考えても全然出てこないので発想を変えてみた。

自分はどんな人間になりたくないのか。

1,人から嫌われ離れられていくような人間→人を大切にして、人と関わり続けたい?

2,自制できない人間になりたくない。欲求のままに行動したくない。→自分を見つめ返す落ち着きを常にもっていたい?

3,経験にお金を使いたい。物ではなく無形のものから多くの喜びを感じたい。

 

上の3つかなぁ。特に3つ目は書きながら思いついたんだけど、物からあんまり幸せを感じたことがなくて、経験から多くの幸せを感じてきたってことが文章を書きながらわかった。

1,2も形のないものだし。

 

上の3つを人生の基軸として、ミッションステートメントにしてみよう。

ピースフルなチューがしたい

最近思うのは、キスとチューは全然違うなってこと。

キスは、男/女の関係性の中(ヘテロセクシャルに関して)で行われる営みであると思う。そこには性的ないやらしさみたいなものであったり、人工的な不自然さを感じる。

キスはお互いが造りだすものであると思う。創造物と言ってもいいかもしれない。

だから人によって合う合わないがあるのではないかな。

 

一方、ちゅーは可愛らしくて、擬音語チックで、幼児的。今にも抱きしめてあげたいと思ってしまうくらい愛らしい。幼児的と書いたけど、その通りで、『はじめてのチュー』なんて歌もあるが、あれが『はじめてのキス』ではどうだろうか。場末のパブで、おっさんがウイスキー片手にハードボイルドにタバコをくゆらせている画が浮かぶ。一気に大人びた印象を受ける。なんだが身構えてしまう。あの歌のキャッチーさは、イコールで「チュー」というものに対する受け入れやすさでもあると思う。

 

チューもキスも唇を重ねるという同じ行為だ。しかし文字から受ける印象以上の違いがあるように思えてならない。

 

もしかしたら、私達は2通り(チューとキス)の唇の重ね方を持っているのかもしれない。物理的な方法という意味ではなくて内的な動機付けとしての二通り。

 

キスを人口的と書いたが、チューはどうだろうか。

チューは親愛の証であるように感じる。相手のことが性的な意味ではなく、人間として強い親しみを感じた時に「チュー」がしたくなる。心の根本からチューを求めてしまうのだ。相手のことが好きすぎて、自分が持っている愛情表現では足りなくなった時。だからとても自然なものであると思う。底から自然に湧き上がってくる感じ。そこに性別の違いは関係ないように思う。

 

キスはどんな時にしたくなるのだろうか。

「キス」をしたことはある。セックスをする時や、恋人とのキスがそれだ。明らかにそれらはチューではない。特に「ディープ」な時は明らかだ。だって「ディープチュー」なんて聞いたことないでしょう。

「キス」をしている時は、閉じられた世界に没入している感覚がある。視野狭窄で、目の前の相手が「全て」であるように、自己催眠しているような感じ。既に書いたが、不自然なんだ。本能的じゃない。

その時は良いんだけど、終わったあとに「賢者モード」みたいになる。妙な後味の悪さ。言葉にできないのがもどかしい。そして、中毒性がある。

 

中毒性があるものは、たいていロクでもないものだ。

 

コーヒー、タバコ、お酒。中毒性が現れてしまっている時は既に害悪なものになっている。多分キスも同じ。

 

だからキスが好きになれないのか。

 

キスをしたいと思うことはすくないけど、チューをしたいと思うことはたくさんある。

男女問わずある。そんな自分はおかしいのだろうか。それともバイセクシャルなんだろうか。

ただ分かるのは、チューがしたくなるほど、好きな人が沢山いるのはきっと幸せなことなんだろうなってこと。

ソロモン、マジ早漏……『ブラッド・ダイアモンド』

お題「最近見た映画」

最近、見た映画は『ブラッド・ダイアモンド』という映画。

 

物語のあらすじ

舞台はアフリカのシエラレオネ共和国。紛争中だ。

 

反政府組織RUF(テロリスト)にダイア採掘の強制労働に使役されているソロモンという男がいた。採掘中に、ソロモンは、幸か不幸か、ダイアの中でも最も希少であるピンクダイアを見つけてしまう。それもかなりの大きさ。

 

RUF(テロリスト)のボス曰く

 

「あんなでけぇアレ見たことねぇ」

 

このことが物語の全てのきっかけとなる。

ソロモンはピンクダイアを地面に埋めて、状況が落ち着いたらこっそり取りにこようとする。が、紆余曲折あって、ダイア密売人である主人公のアーチャー(ディカプリオ)、RUFのボス、そしてアーチャーの上司に「ピンクダイア」についてバれてしまう。もう全部つつぬけ。だって刑務所で大声でピンクダイアについて叫んじゃうんだもん。このチキン。

 

俺はピンクダイアとってねぇよぉぉぉぉ!!!!! あんたがとったんだろぉぉうぉうぉうぅ!??!?」

ボビー・オロゴンで音声再生して下さい)

 

ソロモン、アホすぎん???????????

 

ソロモン、マジ卍……。

これがきっかけで、アーチャー、RUFのボス、アーチャーの上司にバレて、ピンクダイアをめぐる三つ巴に巻き込まれることに。いや、おまえのせいだからな。ソロモン。

 

ただこのソロモン RUFに息子をさらわれている。

それを知ったダイア密売人であるアーチャーが、息子の捜索を手助けするから、ピンクダイアの場所を教えろとソロモンに持ち掛ける。

ソロモンは脳みそがニワトリのそれなのであっさり信じて交渉に承諾。

 

密売人の言うことそんな簡単に信じちゃダメっ!!!!

 

ソロモンのアホっぷりはこれで終わらない。

ある日、アーチャーとジャングルを歩いている時に、RUFの一行と鉢合わせる。

RUFに気づいたアーチャーは、ソロモンを押し倒し、RUFが過ぎ去るのを木陰で待っていた。その距離3メートル。(見つかったらほぼ確実に死ぬ)

画面越しからも緊張感が伝わってくる。(ドクドクドクドク)

RUFの足音(ザクザクザクザク)

RUFは気づくのか、気づかないのか……。まだ昼間なので明るいし見つかったとしてもおかしくない。BGMが徐々に緊張を膨らませ、今にも見つかるのではないかと思ったその時、ヤツが叫んだ

 

「ディアっ!」(ソロモンの息子の名前)

 

誰のセリフでしょうか。はい、ソロモンです。こいつバカか。息子だとしてもいまはダメっ。見つかって殺されちゃうじゃん。

多分、映画を見ていた全ての人間が「ばかぁ」と心の中で声を漏らしただろう。

しかも、あとでわかったことなのだが、息子じゃないの。人違い。

おいおい。ほんと勘弁してくれよソロモン。おまえほんとすぐ先走るな。

おまえもう今日から早漏モンな。

 

物語の終盤、いよいよピンクダイアが埋めてある採掘場にたどり着く早漏モンとアーチャー。そこにはRUFがウジャウジャ。夜になったらピンクダイア取りにいくぞ、と言ってアーチャーは午睡をカマす。

夕方になって、目を覚ましたアーチャー。早漏モンがいないことに気づく。

 

おいおい。

 

もう救いようないですわ。このバカ。早漏モン一人でRUFの基地に乗り込んでんの。息子探しに。だれかこいつに「我慢汁」の役割を教えてやってくれ。

 

そんで、アーチャーもアーチャーで早漏モン助けにいって死にます。

 

早漏モンまじ戦犯。

アーチャーは死んだけど、早漏モンは息子とピンクダイアを持ってヘリ(アーチャーが呼んだ)でイギリスに亡命します。

そして、ピンクダイアを見事に金に変えて、イギリスで家族全員で暮らしましたとさ。

 

うん、こうして書くと、ソロモンの先走り汁がダラダラしてる映画としか思えないな。

実際の映画を見たら、また違った感想を持つと思います。(世間的には親子愛に感動するとかなんとか)

 

興味持った方、アマゾンプライムに入っているので見てみて下さい。

 

読んでくださってありがとうございましたー!